看護実習における“目的”の喪失について

看護実習における“目的”の軽視について──学生と現場のあいだにある溝

看護実習における実習目的は、
学生が考えている以上に重い意味を持っている。
けれど現場に立っていると、その大切さを理解しきれずに実習へ向かってしまう学生が多いと感じる。
目的を意識して実習に臨む学生と、形だけの目的を提出する学生——
その間には、決して小さくない溝がある。

目的を持つと、見え方が変わる。
同じ患者の言葉も、ケアも、結果も、
選択の意味を問い返す鏡になってくれる。

逆に目的が曖昧だと、看護は途端に“こなす作業”へと落ちる。
その結果、自分が何を学んだのかさえ掴めないまま、次の実習へ向かっていく。

私は、このギャップを何度も目にしてきた。
ここから、その背景を少しずつ掘り下げたいと思う。


■ 目的が曖昧な学生の実習

目的が曖昧な学生は、とにかく“こなす”ことに追われる。

情報収集をこなす。
「何を目的として情報収集するのか?」と訊ねても、返ってくる答えは
「患者さんを知るためです」。

その情報は、患者を理解するためのものではなく、
書式の空欄を埋めるためのものになってしまう。
患者・看護を「知ること・学ぶこと」ではなく、「書くこと」へ変質していく。

看護技術も同じだ。
バイタル、体位変換、スキンケア——
作業としては終わっても、
それが患者にとってどんな意味を持つのか、

コミュニケーションもそうだ。
患者に声をかけ、世間話をし、笑顔で頷く。
“会話した”という事実だけが残る。

そこで、私は尋ねる。

「いまのコミュニケーションの目的は?」

学生は少し考えてから答える。

「信頼関係を構築するためです。雑談を通して関係ができたと思うので、
これからの援助がスムーズにできると思います。」

その言葉は、正しい。
けれど——

信頼は、雑談をしたという行為そのものから生まれるわけではない。
患者の表情や声色、沈黙の長さ、言葉にならない思い。
それを受け取ろうとする姿勢や、
相手の変化に気づこうとする視点の積み重ねのなかで育つものだ。

目的が曖昧だと、
コミュニケーションすら“作業”に落ちてしまう。
次に何を考えるべきなのか、霧の中に残ったまま終わる。

そして実習が終わったとき残るのは、

「患者さんが優しかった」
「指導者が当たりだった、ハズレだった」
「記録が大変だった」

——そんな感想だけ。

提出物にはおなじみの文章が並ぶ。

「看護や患者を学ぶことができた。知識が必要だと感じたので、学習を深めていきたい。この学びを次に活かしたい。」

AIが書いたような薄い言葉。
何を学んだのか本人にもわからず、ただ次の実習へ向かう。


■ 指導者として感じること

実習のゴールは、実はとてもシンプルだ。

実習で設定された目的を理解し、目標へ到達すること。

けれど目的を見失った学生は、ゴールに辿り着くことはない。
結果だけを見れば「頑張っていた」という評価で丸められ、
お情けの合格ラインを手渡される。

そのまま卒業し、現場に出る。
気づいたときには、
看護とは何かさっぱりわからないまま患者の前に立つ。


■ 自分の経験から

偉そうに講釈を垂れているが、
私自身も目的が曖昧な学生だった。
何を学んだのかもわからないまま実習をくぐり抜け、
そのまま看護師になった。

就職してからの3年間は、本当に苦しかった。
自分が何をしているのか、なぜそれを選んだのか、
説明できないまま働いていた。

学生時代、実習目的を意識した記憶はほとんどない。
なぜなのか、と考える。

授業態度が悪かったから?
学校の説明が曖昧だったから?

書きながら思う。
どれも違う。

■ 看護のイメージと現実のズレ

この記事を書きながら、看護の社会的イメージと実像のズレについて扱った研究をいくつか読んだ。
多くの研究で指摘されているのは、

看護は“やさしさ・献身・補助”として語られ、
その背後にある判断力・説明責任・多職種連携・生活再構築といった専門性が可視化されていない
ということだ。

つまり、社会が想像する看護と、現場で必要とされる看護のあいだには、深い溝がある。
学生は、看護を“専門職の探究”として学ぶ文化よりも、
“役割をこなす作業”として受け取ってしまう。

そのズレこそが、
目的の形骸化や、学びの喪失の根っこにあるのではないかと私は思う。


■ 問うべきは、別の場所にある

もし責めるべきものがあるとしたら、
それは学生でも、指導者でもない。

  • 目的を持つ文化が育っていないこと
  • 目的の立て方を学ぶ教育がないこと
  • 看護の概念が、社会に十分に定着していないこと

この土台の上で、学生だけに責任を負わせるのは違う。


■ 指導者の役割とは何か

問いは残る。

実習指導者は、どこまで学生に介入すべきなのか。
目的を持てない学生に、どこまで手を伸ばすべきなのか。

導く力が不足しているのだろうか、と自分に問いかけた夜もある。

しかし、いま思う。

指導者の役割は、学びの場を提供することだ。

その場で何を感じ、何を掴み取るか。
そこからどう学びへ変換するか。
それは学生の仕事であり、学校教育の仕事だ。

指導者は目的を与えることはできない。
ただ、問いかけや、立ち止まる余白を渡すことはできる。

それでも——

もし一瞬でも、実習の作業が“看護”に変わる瞬間が生まれるなら、
それだけで十分なのかもしれない。

私は、そう信じている。