最近、「毎年100人辞めていた病院が、“全く新しい採用形態”で応募殺到した」という記事を読んだ。
華やかな見出し。
テンションの高い言葉。
「熱量」「承認」「理想の医療人」。
けれど読み終えて残ったのは、
高揚でも希望でもなく、
静かな違和感だった。
医療はそんなに簡単じゃない、と憤った。
……ところが不思議なことに、
気になってその病院の理念や広報誌を読んでみると、
そこには全く違う“本物の重さ”があった。
- 地域医療への誠実な姿勢
- 職員の関係性を大切にする文化
- 「人」を中心に据えた丁寧な言葉
- 無理な美談に寄らないバランス感覚
記事で語られた内容と薄っぺらさとは裏腹に、病院は圧倒的に真剣だった。
私はそこでようやく気づいた。
あの記事は病院が軽いのではなく、“書き手の構造理解が浅い”のだ。
医療を“物語”にしてしまうメディアの癖
医療系の記事には、たまにこういうことが起きる。
- 複雑な現実は削られ
- キラキラした言葉で飾られ
- 成功物語として加工される
記事の文脈に合わせて“編集された医療”が生まれてしまう。
これを読んだ現場の人間は、
どうしても薄っぺらさを感じてしまう。
病院は本気で、真剣なのに。
広報誌は丁寧で、誠実なのに。
記事だけが軽くなる。
こういうねじれは、医療では珍しくない。
理念は立派なのに、記事で軽く見える理由
記事は “読まれるための構造” を優先しがちだ。
- 劇的な変化
- 明るいストーリー
- わかりやすい成功
- 感動
- 熱量
- 承認
これらは一般読者には刺さる。
しかし、現場で働く看護師には刺さらない。むしろ逆だ。
なぜなら看護は、
そんなに単純に変わる仕事ではないからだ。
- 人間の複雑さ
- 身体と心の不確かさ
- 多職種の関係性の重さ
- 感情労働の蓄積
- 夜勤の身体負担
- 境界の曖昧さ
ひとつ変えたから劇的に良くなる世界ではない。
それを“記事用に簡単にしてしまう”と、
どんなに良い取り組みでも安っぽく見えてしまう。
承認で動く組織は脆く、貢献で続く組織は強い
この記事でも“承認”が多く語られていた。
承認は悪ではない。
頑張りを認め合う文化は必要だ。
でも、承認は外側から与えられる燃料だ。
拍手がある間は走れるが、拍手が止まれば支えを失う。
承認が中心になると、人はすり減る。
一方、貢献は静かだ。
- 誰かの不安が少し和らいだ瞬間
- 表情がふっと緩んだ瞬間
- 「今日の関わりは大丈夫だった」と思える帰り道
- 自分の未来に嘘をつかずに済んだという感覚
拍手がなくても消えない。
看護師を動かしているのは、
外側の承認欲求ではなく、内側に積もる貢献感だ。
病院の理念はその点をしっかり理解していた。
広報誌が見せる文章は、承認欲求からくるものではなく、
明確に貢献感を大切にしたものであった。
記事はそれを軽くしてしまっていた。
看護は“単純化”に向かない
病院の理念や広報誌には、
現場の静かな強さがあった。
ただ、記事はそこを拾わず、
成功物語へ収斂させてしまった。
その結果、
- 現場の重さが消え
- 看護の複雑さが削られ
- 努力の文脈が軽くなる
これは病院の責任ではない。
記事を書いたライターが悪いという話でもない。
医療の語り方の難しさが生んだねじれだ。
そして私はこう思う。
医療は、そんなに単純な言葉でまとめられる仕事ではない。
病院の挑戦を否定したいわけではない。
むしろ理念や広報誌、教育計画を読む限り、とても良い取り組みだと思った。
ただ、
“記事に編集されると医療・看護が軽く見える”
この現象にだけは、静かに抗いたい。
結び──軽い物語ではなく、静かな積み重ねの世界へ
病院は本気だ。
理念にも広報にも計画にも、その誠実さがあった。
誤解すべきは、病院ではなく、
“軽い物語にしてしまう構造”の方だ。
医療は派手な変化で動く世界ではない。
看護はなおさらだ。
看護は、
静かな積み重ねの世界だ。
承認で動く組織は燃え尽きる。
貢献で動く組織は静かに続いていく。
私は、病院の挑戦そのものを尊重しながら、
看護を軽い物語にしない言葉を選び続けたいと思う。